私は、趣味のリサイクルショップ巡りで、
持っていない推しの雑誌を見つけたら、
ついつい買ってしまう。
よくブックオフ等に立ち寄っては、
雑誌を物色し、そこに載る推しの
素晴らしい姿やインタビュー記事に
たまらなく惹かれ、欲しくてたまらなくなる。
そうして買ってきた雑誌は、
ほぼ全冊裁断する。
どんなにページが多い雑誌でも、
欲しいページは、たった数ページ。
1冊丸ごと保管するには、
あまりにもスペースの無駄すぎるから。
推し以外のページは、
普段はほぼ内容すら読まずに捨てているけど、
その日は、なにか面白い記事はないかな? と
切り離したページをペラペラと見ていた。
それが間違いだった。
そこで目に入ったのが、
『推し活マネーの上手な使い方』
という記事だった。
推し活? どんな内容だろう?
気になり、チラッと内容を見てみる。
へぇ、そんなこともするんだ、と
発想しないことが載っていた。
読み進めていくと、
「”推しにお金を使う” 罪悪感もダウン』
という文字が目に飛び込んできた。
…罪悪感って、なに?
流行り言葉だと割り切れるたら、
こんなに苛ついたりしない。
推しの作品・グッズを捨てるのに
罪悪感を持つ、とかなら、まだ共感できる。
自分が好きだから、その人を「推し」て、
自分が応援したいから、一方的に応援する。
それなのに、
推し事に遣うお金に、罪悪感…?
価値観の問題なのかな。
なにをふざけているのか、と。
自分の意思で、自らの趣味嗜好で、
その人やキャラを「推し」、
好きだからこそ、グッズを集めたり、
ライブとかに行くんじゃないのか。
そんなに “罪悪感” を感じるなら、
最初からお金を遣わなければいいだけ。
お金を遣わなくても、応援はいくらでもできる。
YouTube・TVなどのコンテンツを観て、
良かった所・感想をSNSに書き込んだり、
公式投稿を拡散・いいね!とか。
自分が、推しに遣うと決めたお金に対して、
心から「罪悪感」を感じるんだったら、
もうそこまで好きじゃなくなったんだと思う。
場合によっては、
担降りする時期だと思う。
そのくらい酷い事だと私は思っている。
今は価格高騰の波で、
遣いたくても遣えない場合は多々ある。
それは致し方ないこと。
遣いたくて遣えないのとは全然違う。
もちろん「罪悪感」を感じることは
誰にでもあるし、悪いことじゃない。
でも、それを推しのせいするのも違う。
推しにお金を遣うときは、
ネガティブな感情はすべて捨てて、
惜しみなく、今しか推せない「推し」を
一片の悔いなく、幸せに全力で推そうよ。
推しの目線に立って考えてみてほしい。
自分のグッズを買わかれて、
「罪悪感」を感じてるって伝わってきたら?
ライブなら、同じ時間を共有して、
全身全霊でお客さんを喜ばせようとしてて、
それを観てる相手が、
その場では楽しんでいたとしても、
後から「罪悪感〜」なんて言われてたら、
そのライブの価値が、支払った額に
見合ってないって言ってるようなもの。
そんな風に推されてるなんて、
知ったら嫌だと思わないかな。
少なくても、気分は良くないでしょ。
どう考えても。
推しのせいにするなんて、言語道断。
私は今まで、作品やグッズを買ったり、
ライブに行ったりしてきたけど、
購入前に、しまう場所ないなぁとか、
後先考えて、ためらうことはあっても、
実際に買った後に、罪悪感を感じたことはない。
むしろ、積極的にお金を遣うことで、
その推しからしか得られない幸せを
貰えたりするんじゃないのか。
少なくとも、私は
音楽も、映像も、ライブも、雑誌など、
どれを買っても良かったと思うことしかない。
買いすぎて収納に困ることはあるけど、
それは、後先考えずに買った自分のせいで、
仕舞う場所を作ればいいだけだから別問題。
そんなたくさんの幸せをくれる
その推したちに対して、
「罪悪感」とは、あまりにも失礼すぎる。
おそらく、
「お金を遣う = 罪悪感」という考えが、
著者の根底にあったんだと思う。
なんでもかんでも、
「罪悪感」で片付ける風潮に嫌気が差す。
それが大切な推しに向けられたら尚更。
「罪悪感を感じるくらい美味しい〇〇」のような
褒めるような、ポジティブな意味で
使われるなら、文句なんてない。
どう見ても、
この記事はネガティブな意味で使われている。
だから、カチンときてしまう。
「罪悪感」、
その言葉の意味を、
今一度考えて使ってほしい
今日このごろでした。